萩焼の歴史

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萩焼とは

萩焼(陶磁器)山口県萩市・長門市「地方伝播」・山口市「地方伝播」(国指定伝統的工芸品)

 

 

400年前、朝鮮半島に渡った毛利輝元が現地の陶工を伴って帰国。(1604年)、萩に窯を開くことを許したのが萩焼の発祥。特に茶の器に名品が多いとされている。土の配合と性質に合わせ、比較的低い温度でじっくりと焼かれた器は、柔らかな印象に溢れた素朴な味わいが特徴。その風情の秘密は、原料の陶土とそれに混ぜる釉薬による「貫入」、使い込むうちに年月とともに色や艶・雰囲気までもが変化する「茶慣れ」にある。この「萩の七化け」と呼ばれる多彩な表情の変化が、希代の茶人たちを魅了し、今もなお多くの人に愛される所以である。

 

山口の萩焼においては明治25年萩市松本村より大和作太郎が山口市宮野大山路に窯を起こし萩焼の地方伝播の礎となった。

 

大和作太郎(号松緑)は安政2年(1855年)萩城下にて元和元年から続く呉服商大和屋に生まれ,明治に入り家業の傍ら若くして陶工を志し、後に萩東光寺窯で職長として萩藩士を指導した。その後吉田松陰生誕地の近くに「松緑窯」を独立開窯し、作太郎22歳であった。その後、明治23年山口市竪小路(萩往還通り)の豪商万代彦七経営の万代窯(山口焼)の職長に招聘されたが2年後廃窯、それを機に一家を上げて萩から山口へ移住し、宮野大山路に松本萩の分窯として窯を築き「松緑窯」または「宮野焼」と呼称され、主に萩焼を制作した。 今や作太郎翁誕生160年、その陶芸精神を継ぎ、伝統窯の炎を守りつつ新風を求める陶芸家の群像が山口萩焼として研鑽の日々を送っている。

 

pdf 萩藩の御用窯の系譜.pdf (0.59MB)